どこまでも続くコンテナ。葬られた貨物列車【チェルビエンスク/ポーランド】
8月の天気の良い日、廃列車を見に行くことになった。
その廃列車は、田舎町の線路に長年放置されているらしい。
我が家からバイクで走ること数十分。
やってきたのは、チェルビエンスク(Czerwieńsk)という小さな町だ。
チェルビエンスク駅から西に少し進んだところに廃列車が放置されているとか。
しかしこの線路自体、最初は廃線かと思ったけれど、まだ貨物列車の線路として使われているようだ。
「こんなに草が生えてるのに、現役なの?」と思うが、意外とあるんだよな、こういう現役線路。
8月の昼下がり。
電車はおろか人影すらなく静かだ。
あそこに停まっているタンクも、おそらく現役。
線路の反対側には、のどかな景色が広がっている。
野原にぽつんと立つ木が妙に絵になる。
付近にはサイクリングコースがあり、自転車で通る人もちらほら。
ところで、ポーランドの田舎では、炎天下の中、上半身裸で自転車に乗るおじさんをたまに見かける。
一度、上半身ブラジャー1枚で自転車に乗るおばさんも見たことがある。
最初は驚いたが、今となっては夏の風物詩のひとつだと思っている。
それにしても、線路に停車している列車は、古びてはいるけどまだまだ普通に使われていそうなものばかり。
一体どこに廃列車があるんだ?と疑いつつ、さらに先に進んでいくと……
あった。
柔らかい青空の下に映える、鈍く錆びついた貨物列車。
サビたコンテナがどこまでも長く続いていた。
ところどころ、扉が開いている。
そっと中を覗いてみたら、酒瓶が落ちていた(ポーランドあるある)。
誰も興味はないだろうが、少しチェルビエンスクのことについて書いておこう。
この町の始まりは1550年頃。
土地を所有していたローテンブルク家が、この辺りに狩猟小屋を建てたことにより、職人などが集まり、小さな集落ができた。
町に線路が敷かれたのは1870年。
第二次世界大戦後に、チェルビエンスクはポーランドに編入された。
編入後に最初に町に移住してきたのは、ヴィエルコポルスカ県(県都はポズナン)出身の鉄道関係者、ウクライナやリトアニアなどのソ連圏からの送還者だったそうだ。
現在は、約4000人が住む町として機能している。
オドラ川にも程近く、ワイン生産で知られ、毎年ワイン祭りも開催されるジェロナ・グラ(Zielona Góra)まで、車で20分ほどの場所に位置する。
ちなみにこちらが、チェルビエンスク駅。
駅舎も古そうだ。
1870年に線路が開通したということは、この駅舎も19世紀に建てられたのだろうか。
ホームを覗いたら、おじさん二人がベンチに座って酒を飲んでいた。
(ポーランドは公共の場での飲酒は禁止されています。見つかると罰金100PLNの刑)
【行き方】
チェルビエンスク駅までは、ジェロナ・グラから電車で20分。紹介しておいてなんですが、廃貨物列車付近はひとけがなくて危なっかしく、何かあっても責任取れないので詳しい場所を紹介するのはやめておきますね。
【場所】
Boczna, 66-016 Czerwieńsk
(最終訪問:2020年8月)
チェコの地方都市と場末のライブハウス【ボフミーン、カルヴィナー/チェコ】
今回は2014年の古い思い出を引っ張り出してみようと思う。
かつて、わたしはFuriaというポーランドのブラックメタルバンドにドハマリしていた。
一度ハマると、それしか考えられなくなるたちなので、仕事を辞めて家を引き払って彼らのポーランド国内ツアーを全通したことがある。
その国内ツアーの1週間後に、チェコの地方都市でもライブをやるということで、のこのこ観に行った時の話である。
さて、チェコでのライブ開催地は、カルヴィナー(Karviná)という人口5万人ほどの小さな街だった。
その当時、Furiaの出身地であるカトヴィツェ(Katowice)に滞在していたわたし。
カトヴィツェはポーランド南部の都市で、チェコのカルヴィナーまで70kmほどだ。
バスでの行き方がよく分からなかったので、途中で乗り換えはあるものの、電車で行くことに決めた。
カトヴィツェからカルヴィナーまで電車で行くには、途中ボフミーン(Bohumín)という街で乗り換えなくてはならない。
こちらはカルヴィナーよりさらに規模が小さく、人口2万人ほどの街だ。
乗り換え時間がそれなりにあったので、とりあえず街を散策する。
こちらがボフミーン駅。
駅構内。ガタガタの階段と落書きがポイント高い。
おそらくボフミーンの目抜き通り。
この通りに色々な店が集まっていた。
どんよりとした曇り空だが、旧共産圏的建物に良く合う。
この建物も、煤けた壁がいい味を醸し出している。
日中だが、あまりひとけがなかった。
何故か教会の前には国連(?)の装甲車。
駅まで戻り、繁華街とは別方向に歩いてみる。
こちら側には特に何も無かった。
なんでこんな写真を撮ったのかも覚えていない。
電車の時間が迫ってきたので駅に戻り、ローカル線でカルヴィナーに向かう。
ボフミンからカルヴィナーまでは20kmくらいなので、あっという間に着いた。
カルヴィナー駅。
思いのほかこぢんまりとした駅舎。
駅前にはショッピングモールがあった。
とりあえずモール内で食事をして、ライブハウスまで歩いていくことに。
ライブハウスは駅から3kmほど。
特に目を引くものもない大通りをひたすら歩く。
余談だが、当時のわたしはSIMフリーのスマホを持っていなかった。
”Wi-fi無し=インターネットが使えない=外で地図を見たり調べものをすることができない”
という構図が出来上がるため、この頃はWi-fiがある場所であらかじめせっせと目的地付近の地図をスクショしていた。
そして、現地に着いたら、そのスクショ地図を見ながら目的地へと向かっていたのだ。
スマホという文明の利器を持っていながら、地球の●き方を頼りにアナログに旅行しているようなもんである。
故に、この時もインターネットが使えなかったので、部分的に撮った地図のスクショだけが頼りだった。
こちらが会場のHard Cafe。
店名にCafeとついているが、バーである。
同じ建物内にイギリス資本のスーパーTESCOが入っており、幸いTESCOの無料Wi-Fiを拾うことに成功。
これが会場内部。
割と広めではあるものの、そこはかとなく場末のライブハウス感が漂っている。
お目当てのFuria。
ライブの合間合間に知らないチェコ人に絡まれ、一緒にビールを飲んだりしていたのだが、その中の一人のおっさんがテーブルで吐いたのでドン引きしているうちにライブは終わった。
ライブが終わる頃には、客はかなり少なかった気がする。
というか、最初から最後まで客が少なく、会場にいるのは出演バンドのメンバー、いわゆる身内がほとんどなのではと思うくらいだった。
トリのバンドが演奏していても会場はガラガラで、のんびり観られたのは良いが、なんとなくいたたまれない気分になったのを覚えている。
当時は、週末なのになぜこんなに客が少ないんだろうと甚だ疑問だったが、今考えると客入りが悪いのも当たり前ではある。
カルヴィナーという街は、そもそも人口が5万人台。
チェコよりもブラックメタルが栄えている国ポーランドで、人口2万人の小さな町で何度かブラックメタルのライブを観たことがあるが、もう完全に身内しかいない状態で、ライブハウスで開催されたプライベートパーティーに来たような感覚に陥った。
いずれにしても、客の少なさといい、小さな街特有のライブハウスの場末感といい、そのローカルっぽさ自体も楽しいので、こういうライブも好きである。
チェコでのこのライブでも、「パンクの方が好き」というお兄さんが観に来ていたが、彼のように「お、今夜あのバーでライブやるみたいだからとりあえず行ってみるか」的なノリで来るお客さんもいたりするのがこれまた面白い。
ちなみにこの後、訳あって駅のベンチで野宿することになるのだが、試しにその話をメインに書いてみたら、まるで危険旅を自慢しているような記事になってしまい、自分に腹が立ってきたので触れないことにした。
(最終訪問:2014年11月)
リトアニアの巡礼地。おびただしい数の十字架が建つ丘【シャウレイ/リトアニア】
2015年のまだ寒い3月下旬、なんとなく気になっていたリトアニアを訪れた。
その頃、ポーランドで絶賛ニート中だったわたしは、少しだけ冒険をしたい気分になって、隣国まで足を運ぶことにしたのだ。
訪れたのは、首都のヴィリニュス、第二の都市カウナス、そして第四の都市シャウレイ。
今回は、十字架の丘で有名なシャウレイを紹介しよう。
ラトビアの首都リガからバスでシャウレイまでやってきたわたし。
ホテルにチェックインし、早速お目当ての十字架の丘へと向かった。
シャウレイのバスターミナル。
ショッピングモールが併設されており、十字架の丘行きのバスもここから出ている。
そういえば、ここのトイレに思い出がある。
出発前にトイレを使おうとしたのだが、ヨーロッパによくある有料式だった。
出入口前で小銭を探していると、ちょうどトイレから出てきたご婦人が「入っちゃいなよ」と出入口を開けたままにして通してくれたのだ。
対面で代金を渡して入る有料トイレだと難しいが、機械で支払うタイプのトイレでは、時々こうして気の利く人(?)に出くわすことがある。
バスの運転手からチケットを買って、乗車。
20分ほどで、十字架の丘近くのバス停に到着する。
街の中心からさほど離れていないが、だいぶ田舎で少しビビる。
本当にこの先に何かあるのか?と不安を抱えながら、こんなうら寂しい道路を歩いていく。
コウノトリの巣に激突していくような飛行機の写真が撮れた。
丘までの道すがら発見した天使……
曇り空をバックに身体を傾けて腰かけるその姿は堕天使さながら、退廃感がすごい。
ちなみに、どうやらここはレストランだったようだ。
ようやく十字架の丘に到着。
まだ寒さが沁みる3月の曇りの日だったが、観光客もちらほらいた。
やはり生の十字架の丘は、ものすごい迫力だ。
たとえ十字架じゃなかったとしても、これだけ大量の何かが一か所に集まっているのは、少し異様な光景である。
ちなみに、ブラックメタル好きのわたしの友人は、シャウレイを訪れたことはあるが、真のブラックメタラーなのでこんな十字架だらけの場所にはあえて行かなかったと言っていた(笑)
信念を貫いていて偉い(笑)
ここに初めて十字架が建てられたのは、およそ200年前。
1831年に起きたロシア帝国に対する蜂起で亡くなった人のために、十字架が建てられるようになったそうだ。
が、リトアニアがソ連の支配下に置かれていた間、この丘は数回にわたりソ連からの破壊を受けた。
しかし、破壊される度に、リトアニア人の手によって丘は復活した。
この丘は、リトアニア人にとって平和的抵抗の場であり、彼らのアイデンティティにもなっていたそうだ。
今でも十字架の数は増え続けており、その数は2006年の時点で10万ほど。
最大で3mの高さの十字架を建てることが許されており、一般人や観光客も十字架を建てられるという。
ろうそくは禁止。
木製の十字架も多いので、ろうそくの炎が十字架に移ったら一気に大惨事だろう。
実際、2006年に火災が起きて、約50m²のエリアが焼けてしまったそう。
と、十字架の丘の紹介は以上だが、わたしがシャウレイを訪れて心くすぐられたものは、この丘だけではなかった。
何に惹かれたかというと、それは……
街並みである。
東欧らしさが滲み出た良い雰囲気の建物をあちこちで目にすることができて、心が躍ってしまった。
廃墟だろうか。
グレーの壁と落書きが良い感じ。
これは、なんとなくデザインが面白いなと思った建物。
歩道も結構でこぼこ。
雨上がりにこういう道を歩くと、思いのほか深い水たまりに足がドボンと浸かって驚くことがある。
共産主義時代に建てられたアパートがたくさん。
こちらは中心からは少し離れた住宅街。
宿泊したホテルがあった付近。
屋根裏部屋に泊まった。
確か、シャワーとトイレも室内についていたのに、値段が異様に安くて、1泊1400円程度だった気がする。
ペンションのような宿で、狭い部屋だったが居心地が良かった。
ただ、トイレのちょうど上の天井が斜めになっていて、何度も頭をぶつけた。
天窓だったので、外の景色は見えなかったのだが、隙間からカメラで撮ったもの。
なにげないリトアニアの住宅街の景色。
十字架の丘以外に特に見るところもない地方都市だが、逆に現地の人々の普通の暮らしが垣間見られるような、心落ち着く街であった。
【行き方】
十字架の丘までは、バスかタクシーで。バスで行く場合、バスターミナルの12番乗り場から、1時間に1本程度の頻度でバスが出ている。丘の最寄のバス停は「Domantai(ドマンタイ)」。そこで降りたら、少しだけバスの進行方向とは逆に進み、目印として十字架が建っている道に曲がる。そこから丘までは約2km。たくさんの方がブログなどで詳しく行き方を紹介しているので、実際に訪れる方は最新情報をチェックしてみてください。
【場所】
Jurgaičiai 81439 リトアニア
(最終訪問:2015年3月)
ナチグッズからソ連の品、さらにはガラクタまでもが並ぶ巨大蚤の市【キエフ/ウクライナ】
支離滅裂な品揃え、どこまでも果てしなく続く露店、線路ギリギリを歩く人々……
ただぶらぶらするだけでも楽しい場所、それがキエフの蚤の市。
キエフに行ったら、ぜひ訪れて欲しい場所のひとつである。
行くならば午前中に限る。
午後になると店じまいする店が増えるからだ。
最寄り駅は、地下鉄2番線のПочайна(Pochaina)駅。
駅を出たら、小さいお店が軒を連ねている方面に歩いていく。
そして、線路沿いに歩いていくと、そこには圧倒されるほどのおびただしい数の露店が続いているのである。
どこまで行っても果てしなく続く露店露店露店。
売られているものも、実にバラエティーに富んでいる。
早速見ていこう。
こちらは何でも屋というか、もはやガラクタ屋。
ガスマスクと電話という謎の組み合わせが魅力的である。
今思うと、このガスマスク、1つくらい買っておけばよかったな~とも思う。
実装することはなさそうだが、やっぱりブラックメタラー的に、ガスマスクの1つくらい持っていても損は無い気がする。
こちらは工具類か。
お店出すときに商品を並べるのもさぞかし大変だろうなと苦労が偲ばれる。
突然のミニ戦車。
危険なかほり漂うナチスコーナー。
いいのか、総統の胸像をこんな堂々と売って。
レコードを売っている店もあったのだが、地道に探していたらVenom発見!
メタル系の盤もちらほらあった。
さすがにゴリゴリのブラックメタルはなかったが。
本屋さんエリア。
ウクライナ語もロシア語も分からないが、今度行ったら絵本などを調達したい。
さて、冒頭にも書いたように、この蚤の市は線路沿いに露店が並んでいるのだが、みんな平気で線路をまたぐまたぐ。
わたしもまたいだ。
5月下旬だったが、気温は30度近かっただろうか。
暑いので上半身裸になっているオヤジも。
ところで、これだけ線路付近に店が出てるということは、廃線なのかと思っていたのだが……
普通に列車が通過していった。
ご覧の通り、結構ギリギリのところにまでお店が出ている。
みんな何食わぬ顔をしているが、見ているこっちが怖いぞ。
こんな具合に、服、雑貨、レコード、本、古いポストカードやバッチ、さらにはどこかの誰かの軍人手帳的なものやパスポートまで売られている。
数えきれないほどの露店がひしめき合っているので、特に買いたいものがなくても、ただブラブラしているだけでも楽しかったり、意外な掘り出し物が見つかったりする。
ここからは、わたしが二度の蚤の市訪問でゲットした品々を紹介。
あくまで一部です。
まず、バッチシリーズ。
大きなかぶモチーフのバッチは、角度によって絵柄が変わる仕様。懐かしい。
この物語って、なにげにロシア民話なんだよな。
ポストカードも、おそらく100枚以上買った。
真っ赤!
「いかにも共産主義っぽいカードが欲しい」とお店の人に告げたら、何千枚もの中から、それっぽいカードを一生懸命探してくれた。
リトアニアの画家ミカロユス・チュルリョーニスの作品がプリントされたポストカード集。
チュルリョーニスは、画家だけでなく、作曲家でもあったらしい。
リトアニアのカウナスの悪魔博物館のすぐ近くに、彼の作品が展示されている「国立チュルニョーニス美術館」もある。
ウクライナ南西部のカームヤネツィ=ポジーリシクィイのポストカード集。
かつてポーランド領だったこともある都市で、大きな要塞が有名。
このように、気軽に安く買える雑貨なども売られているので、自分へのお土産として購入するのも良いのではないだろうか。
何にしても、普通の観光地に飽きた人にはオススメの場所である。
何かしら面白いものが見つかるかもしれない。
【行き方】
地下鉄2番線のПочайна(Pochaina)駅で下車。4番もしくは5番出口から外に出たら、小さなお店が軒を連ねる方面へ歩いていく。下記の住所および地図は、蚤の市が始まる場所付近。ここから線路沿いにバーーーーっとお店が出ているのですぐ分かる。
【場所】
Vulytsya Verbova, 23, Kyiv, ウクライナ 04655
(最終訪問:2019年5月)
緑に浸食されたドイツ人墓地【チシェビエフフ/ポーランド】
このブログには度々、西ポーランドの誰も特に気にかけないような田舎の村が出てくる。
読者の皆さんの中には、「なんでわざわざこんなところへ……?」と思っている方もいるかもしれない。
別にこれといった理由などなく、それは単に、わたしが西ポーランドの田舎に住んでいるからである。
もういい加減、気軽に行けないスポットばかり紹介されるのも飽き飽きしているかもしれないが、読者の皆さんの気持ちも考えずに、今回も田舎にあるスポットを紹介しようと思う。
今回紹介するのは村の廃墓地だ。
廃墓地探訪のために向かったのは、チシェビエフフ(Trzebiechów)という、ポーランド西部に位置する人口1000人ほどの小さな村。
この辺りは、かつてドイツの領土だったこともあり、ドイツ人が遺した建物も豊富に残っている。
以前紹介したこの教会もそうだ。
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チシェビエフフは何もない静かな村。
そんな村の片隅に、ひっそりと廃墓地は佇んでいた。
残念ながらこの廃墓地の詳細はほぼ分からないのだが、福音派ということだけは分かった。
(ポーランドはカトリックが圧倒的に多いが、かつてこの辺りに居住していたドイツ人は福音派が多かった模様)
門(があったと思われるところ)から中へ入ると、すぐに数基の墓石が目に入る。
墓石にはドイツ語が刻まれていた。
さっぱり分からないのでGoogle翻訳で調べてみたが、「安らかに眠れ」的な文章だろうか?
今は誰も手入れすることなく、雑草に囲まれる墓石たち。
夏場なので緑が生い茂る状態になっているが、冬場はかなり荒涼とした景色になるらしい。
こちらは1893年に亡くなった方の墓石。
日本にも100年以上前のお墓はいくらでもあると思うのだが、今まであまり墓地の古さに想いを馳せたことが無かった。
この下に120年以上前に亡くなった人が埋葬されているんだ……と思うと、妙に不思議。
それにしても、緑に蝕まれていく廃墟を見ると、天空の城ラ〇ュタを思い出す。
わたしはなんだかんだ言って、ジ〇リではラピュ〇が一番好きだし、パ〇ーと〇ータが天空の城に到着するシーンで毎回泣く。
壁に掲げられている石碑に刻まれているのは、ここら辺の地主か何かの名前なのだろうか。
ところでこの村には、今はコミュニティセンターとして利用されている宮殿もあるのだが、その裏の荒れ果てた公園に謎の物体がある。
一体何のために作られたのかも分からない。
公園とは言ったものの、あまりにも手入れがされてなすぎるただの荒れ地で、草木がうっそうと生い茂っていた。
そして、この謎の物体の周りには、ウォッカの空き瓶やビール缶が転がっていたことは言うまでもない。
【行き方】
最寄りの町はスレフフ(Sulechów)。バスなども出ていないので、タクシーで行くか、車やバイクをお持ちの方は278号線を村に向かってまっすぐどうぞ。
【場所】
66-132 Trzebiechów
(最終訪問:2020年6月)
さよなら、犬とおじさん【エルデネト/モンゴル】
2回連続で続いたモンゴル旅行記の続きです。
未読の方はまずはこちらをどうぞ。
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一人で入るにはちょっと勇気のいるこぢんまりとしたガチ食堂に連れてってくれたおじさん。
これがモンゴル料理だよ、と頼んでくれたのはおとといウランバートルでも食べたものと同じメニューだった。
しかも、お茶を頼んだら、ビールジョッキに入ったお湯とリプトンのティーバッグを渡される(笑)
昼食後、「ちょっと仕事の買い物したいから君は車で待ってて」と、工具系の市場に車を停め、わたしを車に放置し犬と一緒に買い物に行くおじさん。
暖かい車内で待つこと20分くらい。
おじさんが戻ってきた。
何買ってきたのかな……わたしをバラすための道具でも買ってきたんだろうか……と再び心配になる。
が、不思議なもので、心配しつつも、何だかこのおじさんは悪い人という気がしない。
世界にはこうした自分の勘に頼って知らない人についていって、そのまま行方不明になる人もいるんだろうなぁと考えつつ、
どうせ行くとこもないからと、誘われるがままおじさんのアパートに遊びに行くことに。
アパート前でおじさんと親しげに話していたロシア人の少年。
わんこはいつも一緒で、家族のように可愛がっていた。
おじさんのアパートの部屋はキッチンと居間と寝室だけの狭い部屋だった。
部屋のあちこちに漂う独り身感。
キッチンのテーブルの上には食べかけのお菓子やパン、お皿に乗った果物が置いてある。
よく分からないけど少し切ない気分になりつつも、さっき買ったモンゴルの揚げパンをチンしてもらって食べる。
お茶を飲んで一休みしていると、「見せたい写真があるんだ」とPC前の椅子に座らされた。
そして、そこから約3時間、どれもこれも似たようなキャンプ場の大自然写真や動画をひたすら披露してくるおじさん。
なぜか時々、手術の動画も紛れており、「君は興味ないよね」と言いつつ、腹をかっさばいて中身をごそごそやってるグロ動画を公開(笑)
一体このおじさんは医者なのか、それともシリアルキラーなのかと、ほんの少しだけまた不安になった。
18時頃、やっと「わたし、明日のウランバートル行きのバスの時間調べに行くから帰るね」とおじさんに告げる。
すると、やはり予期していた展開が。
「……今夜はうちに泊まって良いよ。ホテルはチェックアウトして、うちでゆっくりしなよ」
「ありがとう……でも帰んなきゃ……」
突然泣きそうになるわたし。
おじさんが怖いからではなかった。
なぜだか勝手に、おじさんが本気で寂しがってわたしを引き留めようとしている気がしてしまったのだ。
まぁこれもこちらの都合の良い思い込みである可能性もあり、こういう勘違いをした奴らが海外で行方不明になるんだろう(笑)
おじさんは結局、わたしが警戒してビビってると思ったのか、「わかった。じゃあバスターミナルまで一緒にいこう」と、ついてきてくれた。
外はいつの間にか夕暮れ時。
旧共産圏の建物とノスタルジックな夕焼けが素敵だなぁ……とこの時しみじみ感じたのを覚えている。
無事に翌日のバスの時間を確認しほっと一安心。
時間はまだ19時前。
すっかりおじさんに懐いてしまったバカなわたしは「馬乳酒を飲んでみたい」とわがままを言う。
彼は、「なかなか売ってないよ」と言いつつ友達に電話をし、わざわざ馬乳酒を手配してくれた。
そして、昼間、山頂に行く時に通ったような村エリアに行って、友達から自家製の酒を3種類入手してくれたのだ。
チーズをすっぱくしてお酒にしたような不思議な味だった。
村民自家製の馬乳酒は、ピクルスの瓶に髪の毛とともに入っていた。
おじさんの部屋で馬乳酒をのんでいると、21時頃にまた「ちょっと仕事の用事があるから」と外出する彼。
「シャワー使ってもいいし、インターネットやってもいいし、自分ちみたいに使っていいからね」と言い残し犬とともに出ていった。
……まずったな、余計に別れづらくなるぞ、と思いつつも、あったかくて狭いおじさんの部屋はすごく居心地がよくて、本を読みながら帰りを待った。
待っている間、その日一日の想い出が走馬灯のようによみがえってくる。
朝出会ったばかりだけど、もう何日も一緒にいるみたいだな。
一緒にジープ乗っていろんなところに行って、いろんなもの食べて、お互い片言の英語でいろんな話をして……
あ、さっき村に車で行く途中、ちっこいモグラみたいなやつが道路のど真ん中歩いてて、「何アレ!!」ってわたしが驚いたら、おじさんが真顔で「……犬だ」とか言ってて「UMAかと思った!!」なんて二人で笑ったなぁ……
そんなくだらないことまで思い出しているうちに、すごく悲しくなってきてしまう。
きっと彼が戻ってきたら、またわたしを引き留めるだろうな。
そんなことを考えていると、おじさんが帰ってきた。
「わたし帰るね」
そう告げると、驚いた顔で「なんで帰るの!今夜はうちにいてもいいのに!!」と言うおじさん。
すると、それまで頑張ってこらえようしていた涙がついに溢れてしまう。
おじさんはびっくりして「どうしたんだい、泣かないで、怖くないから」と必死に慰める。
「うん、怖くないのは知ってるよ。でも、ここにいたら明日別れるのがすごくつらくなるよ」と泣きじゃくりながら訴える。
何のメロドラマだ。
おじさんのことを完全に信用しきったわけではなかった。
ましてや何十歳も歳の離れたおじさんに恋したわけでもない。
しかし実際、この部屋はすごく居心地が良くて離れたくない気持ちもあった。
静かであったかくて、聞こえてくるのは犬の寝息だけ。
できることならこのままここに一週間くらいいたい気分。
おじさん、寂しいのかなぁ。
ずっと一人で暮らしてきたのかな。
わたしのわがままもきいてくれて、でも無理矢理何かしようとはしてこなくて。
そんなことを考えてたら涙が次から次へと溢れて止まらない。
これはいかん!とおじさんをはねのけ、「ごめん、やっぱり帰る!」とブーツを履き始める。
すると、玄関で寝ていた犬が、わたしの目を見つめながらブーツの紐を前足で押さえてくるではないか。
なんだよ、君までわたしに行くなというのか……と余計に悲しくなって泣き続けるわたし。
でも、おじさんはしぶしぶさっきの馬乳酒をペットボトルに詰め替えて、わたしに持たせる準備をしてくれた。
「……行かないでくれ。今夜はここにいておくれ」
靴を履き終えたわたしの頭をなでながらつぶやくおじさん。
しかし、わたしは心を鬼にしてドアを開けた。
おじさんのアパートからホテルまではたった100メートル。
彼は犬と一緒にホテルまで送ってくれた。
最後に「じゃあね」と、泣きじゃくるわたしをフロントまで見送って、彼は去っていった。
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実はこの旅日記は、当時運営していたブログから大部分を引っ張ってきたものなので、旅行の詳細なる記録と、その時のかなりリアルな感情を色濃く残している。
正直この記事は公開しようかどうしようかかなり迷った。
知らない人についていって、さらには家にまで行くとは何事だ、自分からトラブルに遭いに行っているようなもんじゃないか、バカじゃねーのと、ポーランド生活で警戒心の強くなってしまった今のわたしだったら思うし、他人からそう非難されてもおかしくないだろう。
しかし。
たった1日しか一緒にいなかったのにも関わらず、あれから7年たった今でも、思い出すとじんわり胸が痛くなってくるおじさんとの思い出。
世間とは断絶されたような小さな街の、華やかさのかけらもない、古くて陰気臭くて狭くて薄暗いアパートで、犬と一緒に質素に暮らすおじさん。
いまだにあのおじさんの正体は不明で、実はシリアルキラーやサイコパスだったかもしれないし、ただの暇な優しくて寂しがり屋のおじさんだったのかもしれない。
最後まで謎だったけど、もう二度と会うこともないであろうおじさんとの思い出をここに残すことにした。
(最終訪問日:2013年10月)
知らないおじさんと山頂でおまじないをする話【エルデネト/モンゴル】
前回のモンゴル旅行記の続きです。
未読の方はまずはこちらをどうぞ。
maniaceasterneurope.hatenablog.com
宿が確保できてほっと一安心したため、お腹は全く減っていなかったが、19時頃に夜のエルデネト散策へ。
旧共産圏らしい良い雰囲気の集合住宅。エルデネトにはそういう建物が本当に多かった。
はて、この像は何だったかな。覚えていない。
これは確か郵便局。はたして夜間のライトアップは必要なのだろうか。
カルチャーセンター前の広場では、若者たちがサッカーをしていた。
1時間ほど散策した後、ビールを買って帰り、ホテルの部屋で一人晩酌して就寝。
2013年10月12日(土)
朝の8時くらいに部屋の呼び鈴が鳴ったので、何かと思ってドアを開けると、なんと朝食のサービス。
部屋まで持ってきてくれるのか!と感激したのだが、皿を見ると目玉焼き2つと、干からびた肉片が2つ。
肉片はまずい上にカタかった。
あれは一体何の肉だったのだろうか。
謎の肉を食べた後、エルデネトに来たら絶対に観たかったモニュメントの見学に行くことに。
道中、建物の壁にマルクスを発見。
こっちはレーニン。
わたしは日常に溶け込んでいる旧ソ連の遺物が大好きで、こういうものを見かける度に胸がときめきまくってシャッターを切ってしまう。
そして、これがお目当てのロシア友好記念碑。
これを見るためにこの街に来たといっても過言ではないかもしれない。
というか、それくらいこの街には特にこれといった観光スポットが無いのだよな。
当時、地球の歩き方に載っていたこの記念碑を見て、いかにもソ連なフォルム(ちょっとSFっぽいような)に惹かれてエルデネト行きを決めたような気がする。
そもそもエルデネトは70年代に旧ソ連の指導により鉱山が開発されるのに伴ってできた都市だそうだ。
労働者や技術者としていまだにこの街で働くロシア人も多いらしい。
確かに街中でもロシア人らしき白人を度々見かけ、まさにロシアの地方都市を訪れたような気分になった(ロシア行ったことないけど)。
記念碑の近くには大仏も。
この国は旧共産圏の雰囲気と仏教が融合しており、違和感を醸しながらも同居しているところが面白い。
遠くに鉱山が見える。妙な形にカットされた山。
とりあえず見たかったものが見られて満足していると、突然知らないおじさんに話しかけられる。
馬鹿みたいにデカい犬を連れたおじさんは、ロシア出身で今はエルデネトに住んでいるらしい。
エルデネトから150キロくらい離れたところでキャンプ場を経営してるとか。
名刺を渡され、「ありがと、いつかキャンプに行くね」と、立ち去ろうとしたら、山を指さして「あのテレビ塔に行ってみないかい?」とドライブに誘ってくる。
明らかに観光スポットなじゃい上にただの電波塔なのだが、なんだか楽しそうだし特にこれといった用事も無かったので、「うん、じゃ、行こう」とついていくことにした。
警戒しつつもおんぼろジープに乗せられガタガタの悪路をひた走り、村エリアを抜ける。
途中で道に迷ったりしながら、
ごつごつの石が転がる道なき道をのぼって山頂に到着。
寒い!
そして誰もいない!
もしかしたら、このおじさん、ここでわたしのことを殺害する計画なのでは……とにわかに不安になる。
しかしわたしの不安をよそに、おじさんは熱心にその場にあった謎のモニュメントの説明を始めた。
これはモンゴルの宗教的なものらしい。
おじさんが言うには、まわりをぐるぐる3回まわり、石ころを真ん中に投げ込むと……まぁ何かがあるらしい(笑)
とりあえず二人で実行しておいた。
ただでさえ寒いのに、何も遮るものがない山頂なのでとにかく寒かったが、壮観な景色に息を飲む。
エルデネトの街も一望できた。
おじさんが見つけた何者かの骨。
ブラックメタラーとしては持ち帰るのが正しいような気もしたが、普通に邪魔なので止めておいた。
山から下りると、おじさんはカーペット工場に連れて行ってくれた。
エルデネトは銅鉱山だけでなく、カーペットも有名らしい。
しかしここでも、まだおじさんへの不信感を拭えずにいたわたし。
なら、最初からついてくなという話なのだが。
おじさんは知らない男の人と話し始め、わたしをカーペットに座らせ、ちょっとここで待ってて告げてどこかに去っていった。
きっとあの人は人身売買の元締めか何かをやっている悪い人で、わたしをどっかに売り飛ばそうとしてるんだ……と不安いっぱいの妄想が頭をよぎる。
けど、おじさんは戻ってくるなり、「お腹減ったよ」というわたしに「ははは(笑)おすすめの食堂があるからそこに行こう」と優しく声をかけてくれるのだった。
つづく……
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【行き方】
ここでは、エルデネトのロシア友好記念碑への行き方を記しておく。2013年当時の話になってしまうが、ウランバートル行きのバスが出ていたバスターミナル(Авто вокзал)の近くにあった。階段になっているので、そこをのぼれば着く。多分今もそこにあるはず。
【場所】
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(最終訪問日:2013年10月)